戻る/進む
銀色の空 第一話 −初陣−
そこは、何もない空だった。 上も、下も、右も左も、果てしない、群青の空。 僕は思った。
……ああ、これが悲しみなんだ。
何もかも失われて、いつか人は、こんな世界に投げ出されてしまうんだ。
――だけど、
空って、
こんなに悲しいものだっただろうか……?
1940年1月2日。 僕にとって最初の出撃命令が下された。
「――おい新米ッ、もたもたするな!!」 「は、はいっ!」 僕の小隊長、ルーッカネン中尉に怒鳴られた。 ブリーフィングが終わってすぐの離陸。やっと僕の順番で、初の実戦、緊張して震える手は、なかなか手袋をはめることが出来なかったけど、叱咤されて、慌てて手を押し込んだ。そして僕は自分の機体――アレストリア製の新型機Me109E“メルス”に飛び乗った。 エンジンは既に暖気を終えて飛び立てる状態にある。音に異常は無い。計器に目を走らせる。 ……うん、異常無し。 僕が確認を終えた時、第一小隊が早くも飛び立った。 小隊長はもうランディングを始めていて、僕は慌ててそれを追って機を進めた。滑走路に乗ったところで、エンジンの回転数を上げる。大きく手を振る基地要員に敬礼を返しながら、僕は操縦桿をゆっくりと引いた。 だんだんと機は加速してゆく。次々と景色が流れて、そして翼が風を纏った時……晴れ渡った空に、僕は飛び立った。 ふわっ、と宙に浮き上がる感覚。慣れてきたら、これがすごく好きになった。 脚を収納し、緩やかに高度と速度を上げてゆく。 ……練習機よりも遥かに速い。悠々と空へと駆け上る感覚。 敵本隊の高度は2000。それよりも高く飛ぶ。 隊長機にくっついていく。しばらくすると編隊は水平飛行に移った。 「高度は……」 3000。1000mの利がある。敵はいまのところ夜間爆撃が出来るほどの芸当を持っていないらしい。だから短すぎる日中の間に行う他無い。だから僕ら戦闘機乗りは、その短い時間を全力で飛ぶ。 ただ希少な戦闘機を失わないように、慎重に。 『――各機、方位そのまま、高度を維持せよ。敵との遭遇予定地点まで、あと5分』 一撃離脱に徹する。撃つときは確実に、落ち着いて、動きを読む。 教わったこと、すべきことを頭の中で反復させる。 珍しく雲の少ない、綺麗な空の中。フィルヒェ空軍最高の撃墜数を誇る僕らの戦闘機隊は、敵を目指す。 「……ふぅ」 エンジン音が、やけに大きく聞こえる。
……正直、不安だ。 この部隊で新米は僕ただ一人だけ……。本当は同期が一人いたけど、彼は僕より早かった初めての実戦で、戦死してしまった。彼は僕なんかよりもずっと上手く綺麗に飛んでいたのを覚えてる。それもあってなのか、僕は随分と遅れて、三週間待って、やっとだ。それも、全員分の機体が揃ったから。 やっと飛べる。その安堵感と、初の実戦の恐怖。 実弾が飛び交う戦場で、経験の無い僕は本当に生き残れるんだろうか。200機を超える敵に対して僕らは、たったの24機。ただ今まで失った機体は3機だけなのが救いかな……。 でも、きっと隊長達にしっかりと付いていけば大丈夫。自分にそう言い聞かせる。 戦死した彼は、運が悪かった。それだけのはずだ。 時計を見る。もうすぐだ。 一度深呼吸して、一層早まる鼓動を落ち着かせようとしたけど、ダメだった。 取り敢えず何度も計器を見て、問題が無いことを確認する。 残燃料、油圧、エンジンの回転数、速度計、高度計…… ……よし。 「……ふぅ」 僕は上を向いた。当然、そこは何も無い青い空。 どこを向いても青。遥か下方の地上は白。 その中に僕はいる。地上から見ればたった一つの小さな点、本当に、ちっぽけだ。
幼い頃、風を切り青空を飛ぶ空軍の飛行機を見て、それに強い憧れ抱いた。
そして今はその操縦席で、操縦桿を握っている。
……敵を討つために。
『――新米』
「えっ!? は、はいっ!」
『しっかり飛べてるな、いい子だ。ちゃんと俺のケツに付いて来いよ』
「はいっ!」
びっくりした……。完全に油断してた。
だけど一瞬の緊張の後は、程よく力が抜けた気がする。
……もしかして、気を使ってくれたんだろうか?
たとえそうでなくても、有り難い。
改めて一つ深呼吸して、少しだけ落ち着いた鼓動で、そのときを待った。
「これを、人に向けるのか……」
機銃の発射ボタンを意識すると、そんな心情になってくる。
今まで訓練標的にしか撃ったことの無い実弾を、生きた飛行機に向けて撃たないといけない。
僕は、ただ飛んでいたかっただけなのにな――
『こちら第一小隊、敵編隊を視認。まだこちらに気付いていない模様』
「……」
……僕は、淡々と告げられた敵機発見の報に息を呑んだ。
『敵の進路、高度は共に予定通り。このままの進路で飛行する』
時計を見る。予定の時刻とそう違わない。
もうすぐだ。
先頭の機が左へロールして、降下する。
冷静な声が、通信機から攻撃を告げる。
『交戦、ダイブして敵編隊に突入せよ』
戦友達が次々と急降下してゆく。
『新米、教えた通りにやれ! 行くぞ!!』
「了解ッ!」
隊長に続いて左にロールし、機首を地上に向けて、速度に気を付けながら急降下する。
「ぅぁ……」
……そこには、息を飲むほど多数の敵が、空を飛んでいた。
先行している機は既に攻撃を行っていて、敵機が何機か火を吹いている。
護衛は慌てふためいている様子だ。まともな行動に移れている機は見受けられない。
十秒も無い早さで距離は詰まる。
隊長の機を確認しながら、僕は狙いを定める。
急激に迫る嵐。それは瞬きさえ許されない一瞬。
混乱状態の敵編隊に突入する。隊長は既に射撃を行って、SB-2の左エンジンを撃ち抜いていた。
――あ、ダメだ。撃てない。
僕はその後ろに付いて、編隊を突き抜ける。
『落ち着け、もう一度行くぞ』
勢いをそのままに上昇。
爆撃機の防御放火が飛び交い始めた。滅多に当たらないとしても、怖い。
上下左右にも意識を向ける。まだ向かってくる戦闘機は無い。そもそも数も少ないみたい。
『右上方の孤立した爆撃機』
「了解です」
隊長機は加速して、敵機の下方から一気に急上昇する。
僕はそれに必死に付いていった。そして、やっと射撃を意識した。
操縦桿を握る手に力を込める。機を上昇に転じさせると、照準器に敵機が入った。
このままだと外れる。少し機首を下げる。
頭に浮かんだ未来。
そこに向けて、僕は撃った。
短い射撃。一瞬だけ指に力を込めて、抜いた。
機首を振り上げて敵機の後方を、上空へ向けて飛びぬける。
隊長は速度を取り戻すために下降していた。僕もそれに続こうとして――
『五時から来てるぞ!!』
「!?」
咄嗟にミラーを見る。
接近してくる敵機。こっちはまだその射線には入ってない。
旋回して上昇。
すぐ後に弾丸が飛んでいくのが分かった。敵機は付いてくる。
『駄目だ、降下しろ!!』
「あっ」
すぐ隊長の指示に従い、ロールして機首を大地に向ける。
旋回で少し速度を無くしたけど、すぐに取り戻した。
十分な速度を得てから、今度は急上昇する。呼吸が詰まる、けど何度も訓練した。まだまだ大丈夫。
さすが新型、速い。
途中で敵機は諦めた。それを見てから思わず息を吐いた。
「はぁ……」
本当に、機体の性能に感謝だ……。
『そのまま昇れ、すぐ追いつく』
「了解……」
少し編隊と離れた。
左旋回しながら、隊長が接近してくるのを確認して、水平飛行に移る。
高度2000。少し低い。
『よくやった、撃墜1だ』
「えっ?」
『もう一度だ。行くぞ』
「りょ、了解……」
撃墜? 僕が?
曖昧な現実を受け止められないまま、まともに前へ進んでいない敵に向かってゆく。
戦況はかなりこちらの優位に進んでる。
十分敵機は落としているのが分かった。
『自由目標。付いてくれていればそれでいい』
僅かな時間で自分の目標を決めなければならない。
返事をする余裕も無くて、緩やかな角度で攻撃にかかる。
一瞬の判断。何を狙い、どう撃つか。
目まぐるしく変わる空。
どこに意識を向ければいいのか分からない。
――と、正面。
「うあっ!?」
突然視界に敵機が入った。
反射的に操縦桿を捻る。
衝突ギリギリで回避は出来た。だけど、速度を失くした。
後方を確認する。
右後方から、来た。
捕捉される、まだ遅い。
「うぁっ!?」
弾丸が飛びぬけてゆく、一刻も早く、速度が欲しい。
だけどその動作さえ取れない。不利なドッグファイトに持ち込まれる。
失速を気にしながら、回避機動を取り続けた。弾丸は何発も飛んでくる、当たらないのは彼の腕なんだろう。
「はぁっ……はぁっ……」
また急旋回。一瞬真上を向いた。
「――あ」
敵機。このコースは、まずい、けど無理だ。撃たれる。
自然と視線はその機体に固定された。
時間が遅い。早くしてくれ。
最後を、覚悟する。
そして、パッと敵機が光った。
見据えていた目は、暗くならなかった。
黒煙に包まれて、操縦を失っている。落ちてゆく。
ハッとして後ろを見ると、そこにいた敵機もいなかった。
『大丈夫か?』
隊長の機が、スッと前に出てきた。
「とりあえずは」
『危なくなったら言えよ、それがチームだ』
「了解……」
『もう一度だ、ついて来い』
隊長の後に続く。よく周囲を見渡しながら、しっかりと。
時折暴れまわる戦友の機体にも目をやる。激しい起動でドッグファイトをする機が何機か。
すごい……あんなの真似できないや。
『行くぞ、続け』
降下、下方に避退して孤立してるSB-2を狙うようだ。隊長とは間隔を開けておく。
防御砲火は無い、太陽の影響じゃない、どうやら機銃をやられてるらしい、好都合だ。
もしかするとそれを分かっての攻撃なんだろうか?
『ルミア、落としてみろ。俺は上を守っておく』
「え!? あ、はい!」
隊長の機が降下を止めた。ボクは一機で降下する。
後方に付くのは少し怖かった。そのまま上空から一撃をかける。
距離は瞬く間に縮まった。狙うは右翼エンジン。
弾道と敵機の未来位置を合わせる。
そして撃つ。すぐに退避。
後方を確認しながら機を水平に。
敵機は右翼から黒煙を吹き上げながら徐々に高度を下げてゆく。
そしてボクの視界から消えた時、赤い閃光が走った。
……やった?
『よし、上がって来い』
「了解」
隊長の機に左側に並んだ時、言葉じゃなくて、指で『二つ』と。僕に示してくれた。
さらに上昇。その最中に一度ミラーを見ると、白い地上から立ち昇る無数の黒煙が目に付いた。
『敵が潰走する。各機、高空へ避退。撤収だ』
攻撃に掛かろうと、もう一度高度を取っている途中での通信。
僕は隊長に続いて帰路についた。
今一度確認しても、計器類は正常、問題は見られない。
敵機は当然追ってこない。
よく周りを見ても何も無い。上下左右、敵機らしきものは無い。
味方にも損害はないみたい。
……
「……はぁぁ」 ……やっと、終わった。 身体の緊張がやっと解けた。思えばずっと力が篭っていた気がする。 フットペダルを思い切りガツンガツン蹴ってたと思う。だから壊れるなんて事はないと思うけど、大事にしないとダメなのになぁ……。 かなり寒いのに、汗も掻いてる。飛行服脱いだら凍り付きそう……気をつけないと。 ……本当に、疲れた。 それにしても。 「いい空だな……」 こんないい空なのに。 さっきまでは空戦してたんだ。 大きな空の中の、狭い狭い戦場。 ……明日もあるんだろうか? もしもあるのなら、出来れば今日みたいなものじゃなくて、ずっと小さなものであればいい。 この空は……いつも綺麗なものであってほしいから。 『新米、大丈夫か?』 「はいっ」 『ならいい。帰るまでが戦闘だ、気を抜くな』 「了解です」 理想的な戦いが出来たからか、隊長の声は心なしか嬉しそうだった。 僕は握る操縦桿に力を込めて、真っ直ぐ前を見た。 基地はまだ。日が暮れるまでに帰れるだろうか? 少しだけ、心配になる。 ……けど。
どんな不安も恐怖も……僕は、飛ぶことさえ出来れば、乗り越えられる。 いつか夢見たこの美しい空の中で、僕は、そう感じた。
TO
BE CONTINUED
|